「全日本」と「日本代表」の違い

セルジオ越後さんは、今でも日本代表のことを「全日本」と言っています。1964年の東京オリンピックでアルゼンチンを破ったり、1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得したりしていた頃は、「全日本」という呼び方の方がむしろ普通でした。「日本代表」という言葉が一般化したのは、1970年代後半のことだろう。

では、いったい、なぜ、「日本代表」のことを「全日本」と呼んだのだろうか?それを理解するためには、代表の歴史を知る必要があります。

日本が初めて国際試合を行ったのは1917年の5月9日のことだった(大日本蹴球協会発足前なので、JFAはこの試合をAマッチに認定していない)。

当時、日本、中国、フィリピンの3か国で開催されていた「極東選手権大会」という大会があり、その第3回大会が東京・芝浦の埋立地で開かれたのだ(会場は新橋と台場を結ぶ新交通「ゆりかもめ」の日の出駅辺りにあった)。この大会は、オリンピックのように陸上競技、水泳などが行われる総合競技大会でした。日本が本格的に参加するのは、この第3回大会が初。サッカーの参加ももちろんこの時が初めてでした。

日本は、その初戦で中国に0-5と敗れ、翌日のフイリピン戦でも2-15という大敗を喫してしまっていました。

その時の日本代表は、東京高等師範学校(東京高師)の単独チームでした。

次に日本のサッカーがこの大会に参加したのは、1921年の第5回上海大会でしたが、このときは「全関東蹴球団」という選抜チームが、国内予選で関西学院を破って代表となっている(この大会でも、日本は全敗)。日本が国際試合(対フイリピン)で初勝利を記録した1921年の極東選手権上海大会での日本代表は早稲田大学を主体としたチームでした。

現在の日本代表は、日本国籍を持っている選手全員を対象とした選抜チームです。だが、当時は国内予選に勝った単独チームが日本を代表して国際試合を戦っていたのです。

その後も、しばらくは同じ方式が続きました。国内予選を行って代表を決め、時には他のチームからの補強選手を加えたチームを大会に派遣したのです。

ちなみに、日本のライバルである中国も、ほとんどの大会で、国内予選を勝ち抜いた香港の南華体育会(サゥスチャイナ)単独チームでした。

現在の各国の代表チームは、年間に10数試合ほどを戦い、その間に短期合宿を何度か行ってチーム作りをしています。それでも、世界中の代表監督が「チーム作りのための時間が足りない」とボヤき続けているのです。

まして、1910年代、1920年代には国際試合は極東選手権大会だけ。つまり、2年に2試合しかなかったのです。しかも、東京と大阪の間も鉄道で10時間かかる時代のこと、代表合宿を何度も行うことは不可能でした。それなら、単独チーム(+補強選手)を出した方が強いと判断されたのだろう。

現在でも、世界最強のスペイン代表はシャビやイニエスタ、ブスケツ、プジョルなどFCバルセロナを主体としたチームです。また、2012年のEUROで準優勝したイタリア代表はユぺントスの選手が主力だったし、ポルトガルはクリステイアーノ・ロナゥドをはじめ、スポルテイング出身選手をそろえて戦っていました。単独チームのコンビネーシヨンを利用することは、今でも国際試合で結果を出すための早道なのです。

予選を勝ち上がった単独チームから全日本選抜チームへ

日本がスウェーデンに勝ったことで有名な1936年のベルリン・オリンピックでも、日本代表は当時の日本のトップリーグ、関東大学リーグで優勝した早稲田大学を中心とする関東選抜をベースにしたチームだった(朝鮮半島出身のMF金容植も参加しているが、彼も早稲田大学OBだった)。

じつは、これより前、1930年に第9回極東選手権大会が東京の明治神宮競技場を中心に開かれた時のチームは、日本全国から選手を集めた選抜チームだった(この大会では日本はフィリピンを破り、中国と3ー3で引き分けて、同率優勝ながら日本サッカー史上初めての国際タィトルを獲得した)。

だが、その次の1934年の極東選手権大会(マニラ開催)にも全日本選抜が送られたものの、チーム作りに問題があり、日本は1勝2敗の成績に終わっており、そのため、ベルリン・オリンピックのときは再び選考方針が変更され、早稲田主体の関東選抜を派遣したのです。

「日本代表」というのは、その時の協会が認定して、国際試合に派遣したチームのことです。それが、どのようなチーム構成であるかについては何の決まりもない。そして、かつて日本協会は国際試合に単独チームを送っていたが、第2次世界大戦後になると国際大会に「全日本選抜」チームを送ることが普通になったのです。だから、当時、「単独チームではない」という意識で日本代表のことを「全日本」と呼んでいたのです。

ところで、日本代表は1980年代の末に赤を基調としたユニフォームを着用したことがあるが(横山謙三監督の発案で「国旗の色」をべースとした赤に変更した)、それ以前も、それ以後も、青をべースとしたユニフォームを着用しています。

単独チームが日本を代表して戦っていた頃は、ユニフォームはそれぞれのチームのユニフォームをそのまま使っていました。例えば、最初の国際試合(1917年)で、日本代表=東京高師はいつもの海老茶のユニフォームに旭日旗をモチーフにした日本代表のエンブレムを付けて戦っていました。上海での初勝利のときも、日本代表は早稲田のえんじ色のユニフォームでした。

では、なぜ、全日本選抜(=日本代表)は青になったのか。

それは、1930年に初めて全日本選抜を編成して戦ったとき、主力が関東大学リーグで連覇中だった東京帝国大学(現在の東京大学)の選手だったので、東京帝大のユニフォーム(スクールカラー)のライトブルーをそのまま使つたのが始まりだったと言われています。それが、今でも日本代表が青のユニフォームを着けている理由なのです。

1990年代の初めにJリーグが発足し、外国人監督を招聘して日本代表が本格的に強化され、ワールドカップへの挑戦が始まった頃から、日本代表のユニフォームの青の色調は年を経るごとにどんどん濃くなってきています。今では濃紺、遠くから見るとまるで黒のユニフォームに見えることすらあります。

だが、東京帝大のスクールカラーは薄いライトブルーだったのだから、日本代表のユニフォームは歴史的にはライトブルーだったのです。

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